子どもが親を選ぶ仕組みについて、わたしなりに考えている想像に関するおはなしです。

こんばんは。大宮わさびです。このブログは、わたしの不登校に関する経験談や、自己肯定感、人間関係に関する話題を更新するブログです。

20180929tennsioomiyawasabi

わたしは、人間には、ふたつの部品があると考えている。

ひとつめは「心」、ふたつめは「身体」

心を個人が決めるもので、身体は遺伝により決まるものだと、わたしは考えているのだ。


心は個人のもの。気持ちは個人のもの。だから、産まれる前から、決まっている。

子どもは、自分の心で、親を選んで生まれてくる。

逆もまたそうだ。

身体は、心を入れる容器であり、遺伝子を配合して作られる。

親は、自分たちが用意した身体にぴったりな子どもを選んで産んでいる。


性格は親子で違うことが多い。

性格が遺伝で決まるのではなく、個人個人が人間として生まれる前からもっているものだからかなあと感じる。

一方、身体の特徴は、親子で似ていることが多い。

これは、親が用意した容器だから、当然そうなるよなあと感じる。自分たちがもっていないものを準備することができないのだから。


子どもは心をもって、親を選んで生まれてくるし、親は心の容器である身体を用意して、その身体にぴったりな子どもを選んで産んでいる。

だから、お互いに、選ばれた相思相愛の親子なんだと、わたしは想う。

わたしは母や父を選んで生まれてきた。母や父も、わたしの心を迎える容器としての身体を準備して、わたしを選んだ。

わたしの感覚では、子どもから親への愛情のほうが強いと感じる。

それは、子どものほうが、先に親を見つけるからだと考えている。

親を観察して、自分にちょうど良い身体の準備ができたら、するするっと入り込むのだ。

親が子どもを観察するより長い時間、子どもは親を観察しているのだから、愛着も強くなるんじゃないだろうか。


産まれるときには、身体も自由に動かせないし、言葉を話すこともできない。

そこへ自ら飛び込んでいくのだ。人間って勇気の塊なんだなあ。

子どもって、すごいなあ。と感心して、気づいた。

わたしも、元子どもである。わたし自身も、勇気の塊だったんだなあ。

勇気の塊である、わたしが、未来のことをめそめそ考えて不安になるのは、なぜだろう。

生まれるときには何も持っていなかったのだ。いまは、いろんなモノを持ちすぎているから、失うことを恐れて、不安になるのかもしれない。

あってもなくてもいいモノは、ないほうが幸せかもしれないなあ。


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ほな、また(・∀・)よしなに!


(・∀・)このブログの作者はこんな人だよ

過去記事 ⇒ ジェットコースター人生を歩む、元不登校 大宮わさび。はじめましてのご挨拶。


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