生と死の研究で聞いた言葉と、わたしが感じている生と死のすきまについてのおはなしです。

こんばんは。大宮わさびです。このブログは、わたしの不登校に関する経験談や、自己肯定感、人間関係に関する話題を更新するブログです。

20190523inosisioomiyawasabi
画像提供:akizouさんによる写真ACからの写真

生と死の研究を通じて考えたこと


とあるセミナーにて、生と死の研究について、印象に残る話を教えていただきました。

「テレビドラマで“息を吸って吐いているだけでは、生きているとは言わない”というセリフがあり、そのときは納得した。でも、実際に自分の高齢の母が仮死状態になったときに、あの言葉は間違っていたと感じた」

どういう流れで、その話題になったのか思い出せないのですが、この部分だけが、わたしの記憶のなかにバッと残っています。

(たとえ正論であっても、タイミングによって受け入れられるときと、反論したくなるときがある。って話だったような……)


わたしにとって一番印象に残っている生の死の境目


わたしの祖父は、小学生の頃に死んでしまいました。死ぬ数日前は、言葉を発することもままならず、お見舞いに行っても上手く会話できませんでした。

でも、死ぬとは思っていませんでした。調子が悪い日もあるよね、と。

その夜、祖母が言いました。

「おじいちゃん、きょうはカラスがいっぱいいるって言うんだよね。カラスなんて一匹もいないのに」って。

それからすぐに祖父は死んでしまいました。

祖父が入院していた部屋からは、カラスがとまるような電線も見えないし、空を飛ぶ鳥が見えるような大きな窓もありませんでした。だから、祖父はわたしたちには見えないものを見ていたのだろうなと感じました。

それから、わたしはカラスの鳴き声や姿を見ることを怖く感じるようになりました。(この鳴き声は、みんなにも聞こえているのだろうか。わたしだけに聞こえていたら、どうしよう。わたしは、もうすぐ死ぬんじゃないか)と。

幸いなことに、わたしのカラス目撃情報と、まわりの人のカラス目撃情報は完全に一致していることばかりで、安堵を繰り返しているうちに、カラスへの恐怖を感じることはなくなりました。

この出来事が、わたしにとっての生と死のすきまの記憶。


祖母の入院を通じて


先日、わたしの祖母が入院しました。翌日には元気になり、数日で退院。

わたしは祖母の入院をきっかけに、久しぶりの祖父の生と死のすきまを思い出しました。

人間はかならず死ぬ日はくる。もちろん知っています。

いつか自分が死ぬという事実に対して、不思議で仕方ありません。

わたしは死後の世界について、何度も生まれ変わる(輪廻転生する)と考えています。

だから、自分が死んだとき、苦しいって気持ちは、あっという間に忘れてしまうのだと思っています。

それと同時に、死ぬときの苦しさを忘れていないから、死への恐怖を抱いているようにも感じています。

生まれてから死ぬまで、生と死のあいだにある時間の流れも不思議です。鮮明に記憶に残っている日と、すっかり忘れている日の違いは何なのだろうかと。

|ω・) 世界の創造主に早送りされているんじゃないかと疑っているところ。

24時間365日ずつ、時間が流れているとの認識が不思議です。どうして、わたしは当たり前にそれを受け入れているのだろうかと。不思議。

ロボットも、いずれ感情をもつようになったら、そういう当たり前を不思議に考えるのだろうか。ロボットだったら何か結論が出せるのだろうか。

たまに自分がロボットなんじゃないかと感じることがある。有能な人工知能と呼ばれているものたちの簡易版ロボット。

いろいろ考えて、自分がケツ中心の生活を送っていることを思い出して、(生きてるー)って感じる。

そう、わたしはきょうも便秘で悩んでいる。生きてる。


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過去記事 ⇒ ジェットコースター人生を歩む、元不登校 大宮わさび。はじめましてのご挨拶。


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